防音室の床下底上げで起きる太鼓現象?防止のテキトーな考察
注意:以下、ド素人の超適当な考察なので鵜呑みは禁物です。。。。。。。。
アパートでクラシックギターを弾きたい(小学生レベルの演奏だけど…)と思い、防音室を作ろうと検討中。
床下をプラ木レンで底上げしようかと思っているのだけど、底上げすることにより太鼓現象?が発生して逆に音を増幅させるとかなんとかいう記事を見つけた。
この太鼓現象というのは、高校の物理Iの教科書での気中共鳴と同じかなと思ったので、簡単な計算で、共鳴周波数とかが分かるのじゃないか???と素人ながら思った!
画像のような感じで、防音室の床から、アパートの床に向けての方向で定在波?が起きるんじゃないかと。その場合、共振波長(こういう言葉あったっけ?)の半分の自然数倍が底上げの高さにあたるので、
変形すっと、
それから~。。音の速さを波長で割れば周波数なんで、共振周波数は、音の速さをとすれば、
ってなる。
今のところ使おうと思ってるプラ木レンは3a型ってやつで、最小の高さはで60mm(=)っぽい。空気中の音速が330m/sで、mをとりあえず1として、これらを代入すれば、
2750Hzっぽい。
Yahoo知恵袋ソースによればギターの出せる周波数はだいたい130~1045Hzらしいので、全然共鳴周波数より小さいっぽい!
底上げの高さを調節することで、共鳴周波数を変えられたりできそう。
mが1より大きくっても、共鳴周波数は大きくなるので、以上の適当考察が確かなら、クラシックギターで大きな共鳴は起こらないのじゃないかなぁ?
でもあれか、130~1045Hzが一番大きな音だとしても、それより高い周波数とかいろいろ混ざってるんだっけ?。。。
うーん、仮にダメでも、プラ木レンの高さを調節したり、そもそも気中共鳴が起こりづらいように空間に吸音材を入れたりすることで後である程度対策はできるだろう・・・。
2023/1/3 日記
社会人1年目、初の正月帰省から帰ってきた。
29日の夕方に実家に到着、30日は兄夫婦と食事、31日は家族団らんで紅白、1日は部屋で本を読み、2日はおじさんに挨拶しに行った後、兄貴夫婦が年始の挨拶にしに来てくれた。夜は数少ない大学の友達と食事。半年ぶりに酒を飲んだ。
静かで心から安心できる所で寝れる幸せ。
熟睡できたのは精神的な部分からなのか、適度な疲労感からなのか。
アパートでも同様に熟睡できるように原因を探る必要がある。
しかし、母と父は相変わらず反りが合わず言い合っていた。
私が帰っても上手くやっていけるのか心配になる。
父親が母親を批判するたびに、私も母親の性分を引き継いでいるために、私自身が否定されているような感覚になる。そのたびに自己嫌悪する。常に自分の性格をいやになりながら実家で過ごしていたのを思い出した。
こんな感じで良いことばかりでもないが、それでもでもやはり無条件に愛してくれているのは感謝しかない。
生来の人間不信なために、常に他人を疑って買い物に行くだけで人前でガチガチになっていた心がほぐれて、警戒心が解かれているのを感じた。人に愛されているからこそ、他人を信用して愛すことができているということなのか。
「保湿効果」の盲点
女性用化粧品や最近のメンズスキンケアなどでは保湿効果、保湿効果ともてはやされているが、
保湿されるということは、当たり前だが水分を多く含むということである、
水分があるところには菌類が繁殖しやすい。
つまり、場合によっては臭くなりやすくなってしまう。
・・・
最近DEOCOというコンディショナーを使い始めた。
桃の香り気持ちがいい。
しかし、なぜか使い始めてからデリケートなゾーンが臭くなったような…?
私の体の洗い方は、
シャンプーで頭を洗う→頭にコンディショナー付ける→体にボディソープつける→頭のコンディショナー洗い流す→体のボディソープ洗い流す
という感じなのだが、しっかり体を洗い流しても、どうしても体が若干ぺたぺたする。
おそらくこれはコンディショナーの保湿効果だろう。
特に、肛〇付近がぺたぺたする。頭から流れてきたコンディショナーが流れゆくからだろう。
このことから、最近デリケートゾーンが臭うようになった原因がコンディショナーにあると推測した!
ふーむ、保湿効果の意外な弱点だ。
・コンディショナーをしっかり洗い流した後、ボディソープを体に付けて洗う
・洗い流したコンディショナーが体にかからないようにする
・体にかかったら石鹸などで洗う
これらの対策が考えられる
シングルメディアのメリット
パソコンやスマートフォンはいまやマルチメディアを扱える端末である。
文を書くのも、音楽を聴くのも、本を読むのも、動画を観るのも、もちろん計算をするのも、なんでもできる。万能である。
しかし、なんでもできるということは、なんでもしてしまうのが人間である。
WEBサイトで勉強していても、指を数回動かせば、ゲームや映画を楽しむことができるのは、大きな誘惑となる。
このような誘惑に負けないでいられる人はほとんどいないのではないのだろうか。
結果、広く浅くしか物事を行うことが出来ない。
これは器用貧乏にも通ずるかもしれない。
何でもできるがゆえに、なにもできない。
何が言いたいのかというと、旧来の紙の書籍や、紙にメモをとることなどの大きなメリットは、そのシングルメディア性にあるということである。
読むこと、文を書くことしかできない、その制限があるからこそ、それぞれの物事を深く行うことが出来るのだと思う。
古入道きたりて 感想
古入道とはなんだったのか
七尾はなぜ古入道の夢を見たのか
そして古入道の夢とはなんだったのか
別次元の存在であれば時系列も歪んでいるとみれる
ある意味何百年単位スケールの予知夢だっただろうか
話を長くしようとすればいくらでもできただろうのに、
敢えて短く、そして尻切れトンボに終わらせる、これが良い。
久々に小説を読んだ。恒川光太郎は数少ないお気に入りの作家。
私はアニメも好きだし、アニメ好きな人は多いけれど、この鳥肌が立ってゾクゾクする感動はアニメではなかなか味わえない。
こうなってくると小説好きな人はなぜ比較的少ないのだろうかと不思議に思う。
小説の魅力を知るまでの道のりが難しいのだろうか。
ここらへんの考察は長くなりそうなのでまた違う機会にやりたい。
蟲師 第20話 感想
「蟲と実際に対峙しないと分からない」
蟲を体内に宿し苦しんでいる淡幽こそ、どんな蟲師より蟲と対峙しているといえるだろう。
害虫として蟲を駆除することへの嫌悪感は、無意識に蟲と共存を望む感情から生まれたのだろうか。
蟲を紙に封印するには、蟲を駆除する噺に限らない。
ギンコの話すような蟲と共存し戯れる噺であってもよいのだ。
前者の場合は蟲を嫌悪の対象とし毒物を体から吐き出すようにして書に封じるのにたいし、
後者の場合は、好奇と情愛の対象として、蟲に命を吹き込む。
愛玩する「染み」により文字は時折紙から放たれ、彼女と戯れる。